LOGIN怜央の講演会が終了した。私の質問がよほど衝撃的だったのか、教頭先生は質問を打ち切ったのだ。 怜央とは、それから視線が合うことはなかった。話をする機会もなかった。 その代わり、講堂を出るまでの間ずっと、綺羅良が私を睨んできていた。私は講堂出口で振り返り、綺羅良に向けてカーテシーをした。それを見て顔を赤くした綺羅良は、少し見ものだった。 教室への帰り道。私はクラスメイトの女子に囲まれた。「井伊さん、すごいね! 最後のあのお辞儀って、カーテシー?っていうんだっけ。ガチ綺麗だった」「一条先生相手に堂々としてたよねー。私、見ていてドキドキしたもん」「ありがとう。盛り上がってよかったわ」「それで? それで!? 井伊さんの好きな人って誰!?」「同じクラス? それとも年上? まさかの他校生とか!?」「ふふ。それは秘密」「えー」「やば、今の仕草、すごい大人っぽかった」「ねー。井伊さんって、先生よりも先生っぽいよねー」(まあ、少なくとも伊集院先生よりは年上だものね)「クラスメイトとしてこれから1年、一緒に頑張りましょう。何かあったら、手伝ってね?」「やっぱり先生っぽい……」「はい! 井伊先生!」「よろしい」 クラスメイトたちと笑い合う。 こちらを遠巻きに見ている男子生徒に気がついた。私は微笑みかけた。色めき立つ男子生徒たちに、すかさずクラスメイトが釘を刺した。「あんたたち、井伊さんに近づくんじゃないわよ」「そーだそーだ。井伊センセに色目使うなー。キモいぞー」「そんなんじゃねえよ!」 私は、年下のクラスメイトたちのやり取りを微笑ましく眺めていた。 10年前とは違う形だけれど、こうして青春の中に身を置けることは、ありがたいと思った。「あら?」 そのとき、前方に背の高い男子生徒が現れた。 龍慈君だ。 どういうわけか、機嫌が悪そうだ。 龍慈君の名前は、すでに私のクラスでもイケメン上級生として知れ渡っている。周囲の女子生徒たちが「見て、久我先輩だよ!」と沸き立った。 なるほど、龍慈君はいつもこんな視線に晒されているわけか。 確かに、毎日この調子では、うんざりして無愛想になるのもわかる。 でも、どうして彼はここにいるのだろう。講演会は1年生だけのイベントなのに。龍慈君は3年生だ。そろそろ受験勉強を始めていてもおかしくない。「こん
講演が終わった。 綺羅良の失態というトラブルがありながらも、怜央は最後にはホール内の空気をまとめてみせた。 額の冷や汗を拭った教頭先生がマイクを握る。「それでは、ここで質疑応答の時間とします。一条先生に質問のある生徒は、挙手しなさい。起立したら、クラスと名前を名乗ること」 私は真っ先に手を挙げた。両隣の生徒が、少し驚いたように私を見た。 怜央は、表向きにこやかな表情を崩していない。 伊集院先生がマイクを持って、私の席までやってきた。 列の端の生徒から順にマイクを回してもよかったのに、伊集院先生はわざわざ生徒の前を通り、私にマイクを手渡ししてきた。「井伊さん、穏便にね」 そのことを伝えにきたのだ。 私は尋ねた。「何か、質問してはいけないことがあるのですか?」「……井伊さんだったらわかると思うな。頼むから、僕をあまり困らせないでほしい」 その台詞で、伊集院先生に何かしら圧力がかかっているとわかった。私と怜央との因縁を、誰かから伝えられているのだ。 おそらく――怜央本人から。(あなたには聞きたいことがたくさんある。でも、ここで何を聞いたところであなたは上手くはぐらかすのでしょうね) 伊集院先生からマイクを受け取り、立ち上がる。 生徒たちの視線が私に集まった。 怜央も、私を見た。 時間にして1秒もなかったかもしれない。私と怜央の視線が交差した。 表情が変わらない者同士のぶつかり合いだ。「1年4組の井伊こよりです。先ほどは素晴らしい講演をありがとうございました」 自己紹介する。怜央がステージ上で軽く頷いた。私は内心で眉をひそめた。(……いま、笑ったわね、怜央?) それならこちらにも考えがある。 私は質問をぶつけた。「質問です。『一条さん』は、好きな人がいますか?」「一条さん」に力を込めた。 講堂内が一気にざわついた。 怜央を「先生」ではなく「さん」付けしたことに教頭先生は慌てたが、生徒たちの声にかき消された。「え、知りたい知りたい!」「井伊ちゃんナイス!」 クラスメイトの、主に女子が色めき立った。 それでも怜央は表情を変えることなく、綺羅良を手で示した。「実は、あちらにいる秘書の下弦君が、私の婚約者なんだ」 綺羅良は、椅子に座ったまま勝ち誇ったように微笑んだ。 生徒たちからは「えー、そんなあ」「やっぱ
――放課後になり、私たちはぞろぞろと教室を出て、講堂へ向かった。 今日、新入生全員が参加して、特別講師の訓示を受けることになっている。 クラスメイトの一部は浮き足立っていた。耳の早い女子生徒が、特別講師にイケメンが来ると話していたのだ。 私も、誰が来るのか知っている。 一条怜央。 あの男がやってくる。 黎明館学園では数年前から、新入生向けのオリエンテーションの一環として、学園の理事である怜央が講演を行っていた。 このことは、学園入学前に朝菜と調べて、わかっていた。 講堂は、ステージに向けて緩やかな傾斜があり、映画館のような座席が並んでいた。同級生に続き適当な席に座ると、ちょうど講堂のど真ん中にあたる場所だった。 ステージの端では、司会者や関係者が座る机と椅子が据えられていた。今は司会者である教頭先生のみが座っている。 講演の時間になった。 舞台袖から怜央が現れると、途端に黄色い声が上がった。「あれが噂の理事長先生よ!」「マジ、ヤバッ!」「新入生の皆さん、初めまして。一条怜央と申します。最初に、私は一介の理事です。理事長になってしまったら、忙しくて皆さんと顔を合わせることができなくなってしまう。せっかくエネルギーをもらえるチャンスなのに、それはもったいない。いいですか、私は理事長ではなく、理事です。間違っても私を理事長に押し上げるなんて話をしないように」 片目を閉じて語る怜央。 ユーモアある語り口に、女性生徒だけでなく男子生徒からも笑いが漏れる。(そう。あなたはそうやって、周りの好意を得てきたのね、怜央。この講演はその足がかり。初めて会ったときから変わっていない、大した手腕だわ) 講堂の座席に座った私は、険しい表情でステージ上を見つめていた。 そのとき、ステージ端に設けられた関係者席に、見覚えのある女性が座った。 私はわずかに目を細めた。 下弦綺羅良。 10年前、私をいじめて退学に追い込んだ女だ。 そして、怜央の現在の婚約者である。 彼女が怜央に取り入ったことは、怜央の企みを調べている中で知った。 おそらく綺羅良の方は、私が怜央の元婚約者だったことを知らないだろう。 10年前と違い、綺羅良はダークグレーのスーツ姿でぴしりと決めている。髪色も、あのときと比べるとだいぶ大人しくなった。 遠目では、まるで社長
コンコン。 応接間の扉がノックされ、僕の心臓が飛び上がった。「一条先生、そろそろ講演のお時間です」 教頭先生が、うやうやしい口調で一条さんを呼びに来たのだ。 それまで険しい表情をしていた一条さんが、ころりと表情を変えた。瞬きする間もないほど一瞬だった。「もうそんな時間ですか。つい長話に興じてしまいました」 そう言って、僕を見る。再び僕はどきりとした。「伊集院先生とは年齢が近いせいか、共感するところが多くありました。我が校に、このように若く優秀な教師がいらっしゃることを、誇らしく思いますよ」 僕は口元が引き攣りそうになった。「恐縮です」と答え、何とか愛想笑いを返す。(それは、ご自身も若く優秀だというアピールでしょうか) たぶん、そうだろう。にじみ出したエリート意識なのだ。傲慢――ではあるけれど、一方でひどく彼に似合っていた。 一条さんには、僕にはない強さがある。 教頭先生は、一条さんの自然な傲慢さにすっかり支配されているようだ。春先の暑くも寒くもない気候の中でも、額に光る汗が見える。 主君の機嫌を損ねないように。自分が見ている前で厄介事を起こさないように。そんな考えで頭がいっぱいなのが手に取るようにわかる。(こういうとき、割を食うのはいつも下っ端なんだよな。……ああ、駄目だ。いつにも増して愚痴が出る)「そうですか、そうですか。私も、伊集院先生の優秀さには助けられていましてな。おお、そうだ。今後も一条先生のご案内は、伊集院先生にお願いするということでいかがです?」(ええ!?)「おお、それは嬉しい。ぜひ。伊集院先生、これからもどうかよろしくお願いします」「は、はあ」 完璧な微笑み。この顔を前にして、心を動かされない女性はいないだろう。 井伊さんは、こんな男性から目の敵にされているのか。 一条さんほどの人物の感情を揺り動かしてしまうのか、井伊さんは。 一介の女子高校生が、これほど――。「伊集院先生? いかがされましたかな?」「あ、いえ。まだまだ若輩ですが、私でよければ、喜んで」 つい、迎合する言葉が口をついて出る。 いや、これでいい。これでいいはずだ。一条怜央という嵐をやりすごせるなら、これでいい。 一条さんがソファから立ち上がる。 僕も立ち上がって、彼を見送った。 一条さんが僕の横を通り過ぎるとき、一瞬だけ、彼
「失礼します。伊集院です」「どうぞ、お入りください」 真っ先に「色気のある声だな」と思ってしまったのは、僕が緊張しているからだろうか。 教頭先生に呼び出された僕は、来賓対応用の応接室の扉に手をかけた。 勤務も3年目となると、来賓の格が何となくわかるようになってくる。 教頭先生が伝言役。 校内でも校長室以上に内装にこだわった応接室。 このふたつで、室内にいるのがただの保護者でないことはほぼ確実だった。 そして今、威厳と冷たさと色気を含んだ声を聞いて、僕は部屋の中で待つ人物を察した。「お忙しいところ、呼び立ててしまい申し訳ありません、伊集院先生。当校の理事をしております、一条怜央と申します」「ご高名はかねがね伺っております。伊集院です。名刺がなく、失礼いたします」 僕は慎重に言葉を選びながら、深く頭を下げた。 一条怜央。黎明館学園の理事のひとりで、大口のスポンサー。 そして、この学園の最高権力者である。(そんな御大が、どうして僕なんか。何か気に障るようなことをしただろうか) 内心で冷や汗をかきながら、促されるままソファに座る。 一条さんは、僕が座るのを見届けてから対面に腰を下ろし、ゆったりとした仕草で足を組んだ。感心するほど絵になった。一瞬にして、自分がドラマの脇役になったような錯覚に陥る。あるいは、捕らえられた獲物のような。 (普通、日本人がこのポーズを取ると尊大に見えるものだけれど……これは踏んだ場数の違いだろうなあ) そんな怪物が、しがないいち教師に何の用だろうか。ぴしり、ぴしりと、僕のモットーにヒビが広がっていくのを感じた。「新1年生が入学してしばらく経ちましたね。今日は教頭先生たっての願いで、子どもたちに講演を頼まれまして」「それで我が校に」「ええ。私はまだまだ若輩ですが、未来ある若者にちょっとしたエピソードは伝えられると思っています。まあ、同様の講演をここ数年続けているので、慣れてしまったと言えばそれまでですが」
――私が黎明館学園に入学してから、数日が経った。 怜央への対抗心を胸に秘めつつ、私は真面目に授業をこなした。 クラスメイトたちの多くは、まだ緊張しているらしい。真新しい教科書を真剣な顔で見つめている。この独特な空気が、私には心地よかった。 しかし、全員が全員真面目に授業を受けているというわけではなくて――。「ぎゃはは! ダッセェ!」 英語の授業直前、教室内に耳障りな笑い声が響いた。 プリントを持ったクラスメイトのひとりが、うっかりつまずいたのを見て、ある男子生徒が笑いものにしたのだ。 私は立ち上がって、馬鹿笑いをする男子生徒に近づいた。「ねえ。うるさいから静かにして」「あ? 何だよいきなり」「些細な失敗をことさらに嘲るのは、クラスの雰囲気を壊す行為よ」「……は?」「わかりやすく言うわね。あなたのその笑い声、キンキン響いて無理」「別にいいだろ、ウケたんだから」 男子生徒が苛立った顔をする。私が静かに睨み付けると、彼は目線を逸らした。 星岡大河。 態度がでかいわりに小柄で、高校の制服を着ていても中学生に見える。 茶髪にピアス。典型的なやんちゃ坊主だ。 ただし、顔は整っている。いわゆるかわいい系。おそらく母親譲りだ。 見た目同様、性格も『良く吠えるチワワ』。キャンキャンといつもうるさい。 不真面目、自分勝手を画に描いたような人間で、私が一番、心底、嫌いなタイプだ。 なのに、どうしてここまで詳しいかというと、大河は地元の有力議員の息子だからだ。 父親の星岡議員は、怜央と繋がっているという。朝菜経由で調べはついている。 つまり、私にとって敵側の人間なのだ。(本当なら情報収集のために適当に仲良くすべきなんだろうけど……無理。あんな子に媚びを売るくらいなら、正面から敵対していたほうがいい) プリント拾いを手伝いながら、私は思った。(もしくは、手のひらで